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自分を幸福だと思うか

 年上の知り合いの方に、宝くじを頻繁に買う人がいて、外れてもガハハと笑い飛ばして気にしないほど軽いノリならいいが、どっちかというと宝くじに当選することが幸福な生活への切符だと思っているフシがあって、それはどうだかと思う。
 「宝くじは無知な人間に課せられた第二の税金」などという戒めの言葉があるくらいで、慈善団体に寄付するくらいのつもりで課金するのなら何も言わないが、当選したからと言って必ずしもバラ色人生が即座におとずれるとは思わない。
 統計的にも、宝くじで高額当選した人は3年と経たないうちにもとの所得と同額か、もしくは破産してしまう人がかなりいるらしい。
 いつぞやのニュースでは高額当選した人が郵便局員に殺害されたりしていたくらいだし。

 無論、資本主義の世の中では金銭が無ければ不自由をする局面は少なくないが、その逆説「金銭があれば何不自由しない」かどうかは、これらを鑑みるに非常に怪しい。

 その点で、以前も張ったリンクだがこういうしょーもない出来事に感じる満足感とか、もっと孝行せねばと思わせてくれるような他人のつぶやきとか、これらを見た時のほっこりするカンジをよく憶えておくほうがもっと身になる気がする。

 フランスの作家であるロマン・ロランの作品の中の記述にあるが、幸せを模索することの多い現代人にとって、これはかなり秀逸な名句なのではないかと考えさせられる一節がある。

「人は望む通りのことが出来るものではない。
 望む、生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。
 肝心な事は、望んだり生きたりすることに飽きない事だ。」

規制すれば解決するか否か

 先に断っておくが、自分は性犯罪を幇助するつもりは全く無いし、また表現の自由の名の下に行われる身勝手な言動や行動が許されるとも思わない。
 もっと大事な事を言うと、ロリコンでもない。
 それを最初に念押ししたうえで、以下のことを記述する。
 なお、今回もまた私見を多分に挟んだ下らない論評なので、それについても前もって宣言しておくことにする。

 以下本題。

 児童ポルノ法の改定審議が26日に開始された。
 改定の目的としては児童ポルノの拡散防止強化ということであり、しばらく前からこの議題については提起されていたことではあるが、これがそのまま受け入れられた場合には単純所有が禁止される(つまりそういうシロモノを1つでも持っていたら刑罰)ことになる。
 これまでは販売目的の所有は禁止だったが、私的所有でもアウトというわけだ。
 「大変結構、健全な世の中になるね」と言えればいいのだが、世の中そんなに単純じゃないから困った。

 この単純保持禁止の案件に対してよく引き合いに出されるのが、デジタルデータによる児童ポルノの送付と通報である。
 ここを見てもらえればわかりやすいのだが、つまりはウィルスによってPC所有者の意図しないままに児童ポルノに該当するファイルやデータが勝手にPC内に保存され、それと同時にしかるべき機関に通報されてしまうという可能性がなきにしもあらず。
 そういう動作を行うコンピュータウィルスもすでに実在している。
 この場合は痴漢冤罪と同様に、存在したことを証明することよりも無かったことを証明することが難しい、悪魔の証明を強いられることになる。

 それともう一つ、法改正で盛り込まれる可能性として、改定前は存在しなかった「準児童ポルノ」枠が策定されることになる。
 これはマンガやアニメのキャラクター、および18歳以上が児童を性的に演じた場合、つまり直接的ではないけれども児童への性的所作を連想させるものが該当する。
 ただし問題となるのは、どこまでがセーフでどこからがアウトなのか、ハッキリとしにくいところだ。
 会計的法令でよく見られる「一般に公正妥当と認められる」水準が明瞭ならば問題は無いのだが、場合によっては恣意性が介在しかねないことから、表現の自由を妨げる可能性があるとして懐疑的意見も出ている。

 この改正に際して後援として日本ユニセフがついており、今回の国会審議にも参考人としてユニセフ協会大使であるアグネス・チャン氏が発言している。
 国会審議の様子はこちらから配信されているが、氏の主張をざっくりと汲み取れば、日本は児童ポルノ産出国と化しているのだからそれを規制するのは当然のこと、といった内容だ。
 事実上、先進8カ国(G8)でロシアと日本以外は単純所有を禁止しているうえ、マンガやアニメなどのオタク文化の中心と言ってもいい日本だけに、規制が推されるのはもっともな事だと思う。

 だがしかし、規制すれば解決するのかということに疑念が生じる。
 規制とそれに対する反発は禁酒法などがいい例とされているが、今回の児童ポルノ法改正に対するもっといい例はヴィクトリア朝時代のイギリスだ。
 宗教の中でもことさらキリスト教は性欲を悪しきものとし、聖書においては大罪の一つ「色欲」として長らく抑制されてきた。
 その文化の中、ヴィクトリア朝時代のイギリスにおいては性的な事は徹底的にに排除された。
 驚くなかれ、「テーブルの脚がいやらしく見えるから布でおおわなければならない」といったことが、当たり前に行われいたのだ。
 興味深いのはこれと反比例するように春画(今でいうところのエロ本・ポルノグラフィ)がかつてないほど隆盛を見せ、またその内容も以前に比べるとかなり倒錯的になったという。
 これに呼応するように性癖を満たすための売春宿が繁盛したという話もある。
 もっというなら、ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)といった性犯罪と猟奇殺人を兼ねた犯罪が生じ始めたのもこれ以降である。
 こうした性欲と文化の見地から規制効果の是非を判断する手助けとして、岸田秀氏の著書『性的唯幻論序説』をイチオシしておく。

 またもう一つ疑問点として、児童ポルノ産出国と言われながらも他国に比べると性犯罪率が低いことを考えると、必ずしもそういうシロモノと接する機会が多いほど犯罪を助長するとは限らないと考えられる。(ただし痴漢は他より多いが)

 そうした点を踏まえると、確かに規制の緩い日本にも責任が無いとは言えないかもしれないが、日本が規制強化すれば世界的に児童への性犯罪が減るという言い分にも明確な肯定がしにくい。
 今回の改正案提案理由説明には「国際的な潮流があり、禁止しないとわが国の信用にかかわる」と述べられているが、いつも言うように海外の事例を持ちだして日本に適用しようとするのなら、その歴史的・文化的な違いも踏襲した上で検討してもらいたい。

 法律の網を強化するのは大事だし、もしこの改正案がそのまま通過したとしても、件の通報ウイルスにでも感染しない限りは痛い目を見ることは無いのだが、今回は少々そのなかに恣意性や安直さが見受けられたような気がしたので、らしくないとは思いながらも思考をまとめてみた。
 この問題についてはネット上のあちこちで議論されているので、調べてみればより多面的に問題点を発見できるかもしれない。

ビタミンDとニュースとワイドショーと

 新型インフルが福岡で感染拡大中であることをうけて、某ニュース番組にて、今後梅雨入りしたことによって日光が遮られやすくなるために皮下で作られるビタミンD生成量が低下し、感染可能性が若干高くなるかもしれないというインタビューを放送していた。
 詳細は省くが、ビタミンDは感染症などへの免疫力に関わってくるためだ。

 紫外線が皮膚に当たるとコレステロール代謝物がいくつかの段階を経てビタミンDへと変化するようになっているのだが、ではそこからしかビタミンDが補給できないかと言えばそうではない。
 満足に食事をとっていれば、食品からも一日摂取量に十分な量のビタミンDを補給できる。
 日光浴がないといくら経口摂取しても、体内で維持されにくいという報告も出ているが、基本的にそれほど日の当らない生活を行う人というのはごくごく限られてくるので、神経質になる必要もないと思う。

 小賢しい前置きで長くなったが、つまり何を言いたいかと言うと、わざわざそんな軽微な問題点で感染拡大のリスクを告知する必要があるのかということ。
 今に始まったことではないが、一部メディアの扇動的ともいえるような危機意識や問題意識の提示の仕方はどのようなものかと思う。
 冒頭ではニュース番組と述べはしたが、個人的な意見を言わせてもらうと日本のメディアで厳密にニュースと呼べる番組は数えるほども存在しておらず、ほとんどはワイドショーと呼んだ方が適切であると考えている。

PCってこういうこと

 自宅で使っている2台も、実家で使っているものも、PCはメーカー品を導入したことは無く、いずれも市販のパーツを組み立てた、いわゆる自作PCである。
 機械的な規格を憶え、トラブルシューティングを身につけ、自己責任の下でアップグレードもカスタマイズも行う行為であるために、一般よりも多少PCには強くなれる。
 だけれど脱初心者ができただけで、専門職やより深い探求心がなければそこ止まりだと思っているし、自分がそれくらいのレベルだとも感じている。
 全くそういう方面に疎い人に言わせれば「プロみたい」と言われることもしばしばあるが、何のことは無い、本当のプロ、本当の探究者とはCPUを自作したこういう人のことをいうのだろう。

 極端なところ、自作PCというのはモジュールの組み合わせに過ぎない。
 マザーボードにCPUを載せてメモリを積んで電源と繋いで…、という決まった手順とルールがある。(少なくとも現状で一般的に用いられるPCには)

 モジュールという単語を使うといかにも電気的になってしまうから、もっと簡素に考えるならば、セルフ式の食堂(学食だとか社食)を想像してもらいたい。
 トレーを手に取り、とりあえず朝食を摂りたい時には「ごはんとみそ汁と小鉢と焼き魚」をそれぞれ乗せてレジに向かうだろう。
 小鉢の中身はひじきの煮物かもしれないし、すごもり卵かもしれない。
 ちょっと贅沢したいときにはもう一品付け足すかもしれない。
 体育系で炭水化物を盛り盛りにしたい人は、「カレーライスとかけうどん」をトレーに乗せるかもしれない。(自分はかつてやったことがある)
 いずれも自分が食べたい組み合わせを好きに合わせればいいだけだ。

 つまり自作PCもそういうこと。
 最低限必要な部位・パーツにもメーカーや規格などで複数種類があるけれど、それは「ご飯粒を食べるか、麺を食べるか、パンにするか」という程度の違い。
 メインディシュだって肉も魚も、あるいは無しという選択肢も選べる。
 だからもし食べ合わせが悪かったとしても、それは選んだ自分の責任であって、食堂を責めるのは筋違い。

 富士通やSonyやNECなどが販売しているPCだって、基本的に中身は同じ構造で、やはりモジュールを組み立てているだけ。
 飲食店で言うなら、キッチリメニューの決まったレストランだとでも思えばいい。
 好き勝手に細かいところまでは選べないけど、食べたいものが肉か魚かくらいを伝えれば、あとは店の方が最良だと判断した組み合わせの食事が提供される。
 肉の焼き加減くらいは尋ねてくれるだろうが、多くの選択肢に悩まされることも食べ合わせを心配することもない。

 いろんな要素を無視した乱暴な例えっぷりだとは思うが、「PCは単一的機械」だと考えていた人間を説得するときにこの例えを用いたら、自分でも言いえて妙な説明だったかもしれないと感じたので、改めてまとめなおしてみた次第。
 口頭で説明している時は整合性などを考慮しながらだからたどたどしかったけれど、これくらいスマート(?)に説明してやれれば良かったなぁと、今さらながらに反省。

 しかし久しぶりに長めの文章を書いたと思ったら、またこういうネタだもんなぁ。
 なんというチラシの裏。

ドライバの衝突?

 個人的なPCにかかわるメモ日記なので、今日は詰まらないよ。いつも詰まらないけど、それに輪をかけて。

 グラフィックボード(GeForece9800GTX+)のディスプレイドライバ(Release 185.85)を更新しようとしたら、インストール途中でPCがフリーズする現象に出くわした。
 再起動すると通常起動では立ち上がらず、セーフモードなら起動するので、たぶんドライバ関係で衝突しているんだろうと推測できるけれど、詳しいところがわからない。

 最初はサウンドボードの古くて更新されていないドライバあたりが齟齬を起こしているのかとおもったが、それもどうも違うっぽい。

 別に更新しなくてもコレといって差し支えはないのだけれど、ソフトウエアが最新版でないというのは、どこか気持ちが悪い。
 とりあえず、手動インストールは試しておらず、一度ドライバを削除してから叩き込むという手段もまだとっていないので、もう少し検討してみる余地がありそう。

日本社会制度の歴史的背景とスタンス

前回多少エラそうなことを述べたが、そこで端折った部分が幾分あったので、補足程度に。

日本は近代化へ移行する道標として、ドイツの社会制度を大いに取り入れてきている。
ビスマルク宰相の時代に世界初の公的保険制度(疾病保険)が導入されているため、日本もこの流れを汲んだものになっている。
民間ではなく国家がこれへの加入を義務付けた理由は、一つはその時代の貧困層の不満を解消するという意図もあったが、社会保障制度という観点から言うと、小規模人員の金銭拠出による助け合いでは、そのシステムの安定性や給付金の確保に問題が生じやすかったためだと考えられる。

資本主義を大きく信頼するアメリカなどでは、こうした国家の社会保障制度というのは日本に比べるとかなり小さいもの(いわゆる夜警国家)であるため、民間の金融・保険業が成長した。
かの国では義務ではなく、自己責任という信念に基づいてこうした社会体制を築いたものと考えられる。
ただし、最近では格差意識の芽生えによって少々見直されつつあるようだが。

逆にヨーロッパでは税率が高かったりする代わりに、国民が負担する医療費が極めて小さいなど、社会保障制度を拡充した国家が存在する。
当然こちらにもデメリットとして、財政を圧迫するという欠点があるのだが。

日本はこのアメリカ型とヨーロッパ型の中間をとっているわけである。
国民の社会保障はしますけど、丸抱えはできませんよ、というスタンス。
これによって国民生活のセーフティネットを確保しつつ、財政圧迫の危険性を低下させ、また国民にリスクの存在を自覚させるという、中間的立場らしいメリットを持つに至ったが、同時にデメリットも混在させている。
まず透明性を確保・維持させることが難しいため、今話題の横領事件だとかに発展しやすい。
次に、国民は社会保険を納付していることで、払うばかりではバカらしい考え、払った分くらいは取り返そうとしてサービスを受けるようになりやすい。(合理性の罠と言う)
特に後者は、そう考える人が増えれば増えるほど社会保障費を圧迫し、それに従って国民納付額を上昇させればさらに取り返そうとする、負のスパイラルが発生する可能性がある。

書いていて思ったが、なぜこういう記述が大学の頃にスラスラ出てこなかったのか。
そうすればもう少し、レポートも手早く仕上げられたかもしれないのに。

人間の存在の定義

ドキュメントフォルダを洗っていたら、大学で経済哲学を履修した際に、思考と記憶をまとめる為に記述したメモが出てきた。
レポート程度の内容なら某論文販売サイトでアップロードするところだが、それほどの内容でもないので、ここらでメモとして書き連ねておけば、後から見返す時もあるだろうかと。

あるいは検索に引っ掛かって、悩めるレポート執筆者の一文の足しにでもなれば幸い。
ただし情報の正確性は保証しない。

長くはないが、普通に見ようと思うと非常に詰まらないので以下注意。

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日本は福祉国家じゃないのですか?

 社会保障制度を導入している以上、日本も福祉国家と呼べるはずなのだが、国の長が社会保険制度の根本をまるで知らないような発言をしているので、正直戸惑っている。

以前になぜ保険金は基本的に掛け捨てなのかいう記事の中でも「金銭的リスク分散」という単語で若干記したが、保険金というのは積立年金のように蓄積し、有事の際に還元されるというシステムでは決してない。

 人間誰もが生きている限り怪我もすれば病気にもなるわけだが、そのような損傷(リスク)を治療(解消)するためには、必ず費用がかかる。
 しかもこれが安いとは限らない。
だけれど誰かが必ずそういうサービスを受けるのは、目に見えているわけである。
 それはもしかすると自分なのかもしれない。
 もし自分だったとして、治療するためには自分では負担しきれないほどの高額な対価を払わなければならないとすれば、経過は絶望的なものになるだろう。
 自分のみならず誰もが同じようにそのリスクを負う可能性を持っているのならば、そういう人たちであらかじめ自分がリスクを負う可能性の度合いに応じた金銭を拠出しておいて、運悪くリスク可能性を引き当ててしまった人が出た場合に、その基金から治療費を出そうじゃないかというシステムが保険というものである。

 だから「俺は病気も怪我もしなかったんだから、保険料返してくれよ」というのは、「このリスク分散システムから降りますよ。損傷が生じても自分でなんとかします」と言っていることと同義なのだ。
 なんとかできる人はそれで結構だが、なんとかできなかった人は有事の際に募金を募るとか、悟りを開くなどの選択肢しかなくなる。

 だから損失を負わなかった人は本当ならば「痛い目を見ずに済んだ、よかったよかった」と解釈すべきなのだ。
後日また記したいと思うが、国家がこの社会保険制度を担うがために胡散臭いシステムのように思われがちなのだが、それゆえに保険というものの本来のコンセプトを知らない人にすれば「払った分くらいは取り返させてもらおう」という意識が湧いてしまう。(合理性の罠という)
 まぁ加えて言わざるを得ないとすれば、現状の社会保険が相互扶助制度と混同しがちなことにも問題があるのだけれども。

 もちろん、今回の発言を「病気だとかで医者が必要になる前に予防すればいい」と解釈すれば、それはそれで賢明な進路だと思う。
 おそらくはそういう意図だったと思いたいが、本気で「還元しない保険料を払うのはバカらしい」と考えていらっしゃるようなら、かなり危うい。

 まぁ保険が一般的にわかりにくいシステムで、それを説明する機会が少ないということにも問題がありそうなんだけれども…。

言葉は伝わっているか

「言葉」というと「話すこと」と「記述すること」の両方を含めた情報伝達手段だが、「文字」といえば記すことだけに特定される。
インターネットの世界は文字が基本的な情報伝達手段だが、ここしばらくで文字の扱いというものは難しいと、改めて気付かされた。

ブログやホームページなどの場合は記述している時間とその文章を公開する時間までにリミットはなく、レポートや手紙を書いているような感覚で熟考しながら文章を練ることができる。
しかし、文章を書く行為とそれを公開する行為までに何らかの期限がある状態、例えばチャットなどのリアルタイムコミュニケーションの場合には、とりあえず思った端から、しゃべることに近い感覚でタイピングし、公開していかなきゃならない。
そのために共通認識だと思った部分の説明は簡略、もしくは省略するし、主語を省くなんてのは日常茶飯事だと思う。
そうした結果、それゆえに言葉足らずな文章になったりしたときには、向こうがその文章を読んだ時に漏れや齟齬が生じて、こちらが述べていることの内容が100%伝わらないこともあれば、真逆のベクトルで捉えられたり、温度差が生じたりする。

どこでその伝達齟齬や漏れが起こったのかを特定できれば、あとは噛み合ってない部分を訂正すればいいわけだが、これがまた言うほど簡単でもないのではないかと。

現実のコミュニケーションでも、言っていることが相手にまっすぐ伝わっていないという経験は誰にもあるはずだが、そこでもやっぱり食い違っているところを探してそれを埋めようとするだろう。
だけれどそれを実行しにくい状況が現実にも存在する。
例えば「この人には説明してもどうせ変わらない」というような心情がある場合や、相手が頑として譲らないような性格だったりする場合。
他にも状況次第でいろいろなケースが考えられるけれど、たぶん、誰もが言葉の伝わらないことに対していらだちを覚えたこと、そしてその齟齬を解消することをあきらめた経験はあると思う。

表情が見えていてなおかつ声色や口調やしぐさなどのあらゆる表現が見えていながら、それでも言葉が伝わらないことがあるというのに、文字だけしか表現できない世界で伝達齟齬が生じても何もおかしな話じゃない。

それだけでなくとも、それぞれ個人個人が使っている言葉・単語のニュアンスや意味合いというのは、少しずつ違っているんじゃないだろうか。
よく引き合いに出される例だけど、関東と関西では「アホ」と「バカ」の使われ方やニュアンスが違うように、個人の間でもそういうわずかな単語の解釈が違ったりしている。
だから自分の解釈では最適だと考えた文章でも、相手にとっては微妙に異なる意味合いで受け取られてしまうかもしれない。

とまぁ、ここまでまとまりのない記述をしてきたが、要するに文字や言葉は万能じゃないってこと。
一番基本的な意思・情報伝達手段だけに、とても強い力を持つものだけれど、それを本当の意味で使いこなすのは物書きの職業に就いている人でも難しいんじゃないだろうか。
むしろそういう立場にいる人たちほど、その難しさをよく理解しているんじゃないだろうか。

今こうして一方的に訴えるだけなら国語力の問題だけで済みそうだが、コミュニケーションになるともっとハードル上がるよなぁと実感する昨今。

純粋だな

昨夜20時ごろから、どういうわけか友人と三宮のスターバックスで読書会になった。
その時自分が読んでいたものは山田詠美著『A2Z』、友人が読んでいたのは東野圭吾著『さまよう刃』。

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お互い来る前からある程度読み進めてあったので、1時間ちょっとでそれぞれの本を読み終えたのだが、友人はどうやら非常に自分の価値観を揺さぶられたようで、一体この本(さまよう刃)が何を伝えたかったのか、現実的にどういう意味があるのかを模索しているようだった。

個人的には小説は何かを訴えるというよりも、面白いものを書きたいから著者は筆をとるのだと思うけれど、そこに意味を見出すのは読者の自由だ。
というわけで、読書会の後はそのまま軽い哲学的というか道徳的な議論になった。

自分は本を読むということは、他人の価値観、大げさに言えば人生観・世界観を見ることだと思っている。
私はそれを共感できる場合には素直に取り込むことにしているし、あまり相容れない場合でも自分の価値観では到達することのなかった、オルタナティブな観点だとして考えることにしている。

ところが友人は自分の価値観とそれをガチで突き合わせてしまったように見えた。
なんというか、軽く受け流すことができないようだ。
男気たっぷりな人間だとは知っていたけれど、意外なほどに心が真っ直ぐだったようだ。

私は無意味なことは存在しないと思っているクチだが、しかし何もかもに意味を見出そうとも思っていない。
考えても答えが出ないものは山ほどあるし、時間の経過によって意味を理解できるケースが存在することも知っている。
というのも、自分も一時期友人と同じような境遇に接したからなのだけれども。

とりあえず、友人には「しっかり悩めよ」としかアドバイスできない。
この手の疑問に対する答えは本人が納得することでしか終わらない。
「理解する」ことと「納得する」ことは別だし、それに「迷いが強い人は、その答えも強い」のだと、どこかの小説家が作品中に書いていたような気がする。

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